俺の父・杵島 巧三が興した我が杵島グループは、今では国内を代表する大手企業だ。
その父の後を継ぎ、社長に就任した俺の責務はとても重い。我が社は、世界的にも高いシェアを誇る有名企業だが、国内にはシェアを二分するライバル企業の大和田グループが存在する。
これまではお互いにシェアを競い、激しく争っていたが今や時代はグローバル社会。 目を向けるべきは世界であって、国内で争っている場合じゃない。 事実、我々がそうした争いをしている間に海外企業の台頭を許してしまった。 そういった事態に陥った時、大和田グループの社長令嬢と俺の政略結婚の話が持ち上がった。 お互いの絆を深め、協力して海外企業の脅威に対抗しようという目論見だ。今時、政略結婚など時代錯誤も甚だしいが、理屈で考えれば正しい判断だ。
我が社と大和田グループの利益は国益にもつながる。両企業はそれ程までに影響力のある企業グループだ。 ここで俺が子供じみた駄々をこね、結婚を拒否すべきではないだろう。 * * *大和田家には二人の令嬢がいた。
姉の充希と、妹の彩寧だ。
政略結婚となれば長女である充希が選ばれるかと思ったが、意外にも妹の彩寧が選ばれた。
大和田グループ社長・大和田 毅の正妻は大和田 真沙代だが、どうやら充希は真沙代の実の娘ではないという事情があるようだ。
まあ、そういった事情など、どうでもいい。
俺は彩寧との交際をスタートさせた。俺と彩寧は、初対面ではない。
彩寧は同じ中高一貫校の二年後輩で、同じ剣道部に所属していた旧知だった。学生の頃から彩寧は俺に好意を示し、よく話しかけてきていた。
その為、今回、政略結婚で俺との交際が決まると、喜びをあらわにしていた。 俺はそこまで乗り気ではなかったが、最低限の付き合いには応じるつもりだった。しかし、その矢先───。
大和田家に騒動があり、大和田 毅と大和田 真紗代が離婚した。
理由は多くは語られなかったが、真紗代の浮気が原因ともっぱらの噂だった。 真紗代は大和田家を去り、その際、彩寧も母に連れられて大和田家を去った。 そして、俺と彩寧の交際もご破算となった。これで時代錯誤の政略結婚は白紙撤回となるかと思われたが、妹が駄目なら姉と結婚しろと、今度は充希との結婚話が持ち上がった。
人をまるでゲームの駒のように扱うやり方には、心底辟易とさせられる。因みに充希も俺と同じ中高一貫校の同学年で、高校一年の時には、あまり会話はしなかったが同じクラスになったこともある。
そんな充希と政略結婚をするわけだが、俺は充希に期間限定で離婚をする「偽装結婚」を提案した。
それは充希のことを思っての提案だった───。
* * *充希の父と、充希の産みの母である忽那 碧はお互いに愛し合っていたが、結ばれなかった。
その為、充希は産みの母に育てられず、幼少期はあまり幸せとは言えなかったようだ。そんな充希は、相思相愛の相手と結婚し、幸せな家庭を築くことを夢見ている。
そんな充希に家同士が決めた政略結婚は、夢を踏みにじる余りに酷な話だった。俺は、子供じみた駄々をこねるつもりはなかったが、相手が充希なら話は別だ。
充希の為にも結婚を断った。───だが。
残念ながら今の俺に、父や周囲の言いつけを跳ね除ける力はまだない。
結局、俺は言われるがままに充希と結婚をすることになってしまった。だが、それでもなんとか充希を救いたい。
そこで俺は、充希に結婚はあくまで偽装で、白い結婚とすることを提案した。 そして結婚期間は三年で、それを過ぎれば離婚することも告げた。今の俺に、父や周囲の言いつけを跳ね除ける力はまだない。
だが、三年あれば俺は力をつけ、周囲の言いなりにならない権力を持つことができるだろう。 そして充希を望まない結婚から開放する。 その為の三年間。その為の期間限定の偽装結婚。その為の白い結婚。そのつもりだった───。
しかし、結婚二年目のあの日───。
俺は充希と一線を越えてしまった。
自分から「この結婚は偽装結婚で、三年という期間限定で離婚する白い結婚だ」と充希に告げていたのに、その誓いを破るなんて……。
充希はさぞや幻滅しただろう。
ますます望まない結婚に嫌気が差しただろう。しかも事態はさらに悪い方向へ進みそうだ。
その理由は、俺の中で、充希に対する思いが日増しに大きくなっている事だった。この状況は非常に良くない……。
今から一年後、俺は本当に充希と離婚することができるだろうか?
充希を望まない結婚から開放せず、このまま自分のもとに縛りつけてしまうのではないか? 自分がそうしてしまいそうで、とても怖くなる。 それ程までに充希のことが好きになりつつあった。それならばいっそのこと───。
充希への思いが抑えられなくなる前に離婚をするべきではないか?
俺がそう考えた矢先、会社の総務に一人の女性が入社してきた。
驚いたことに、それは彩寧だった。
彩寧は母方の旧姓・篠原を名乗っていたので最初は気付かなかったが、相変わらず俺の腕に抱きつき、じゃれてはしゃぐ姿は昔と変わらなかった。
彩寧の姿を見た俺はある考えを思いつく。
「彩寧が戻った」
その一言と共に、充希に離婚届を出そう。
充希も政略結婚をする際、期間限定の白い結婚と言われたから了承したのに、それを告げた本人に誓いを破られ、さぞや愛想を尽かしているだろう。
離婚届を見れば、今はそこまで考えていなかったとしても、選択肢の一つ───決断の一つとして、今すぐ離婚をすることを考えるきっかけになるかもしれない。俺はこの思いつきを実行に移し、充希に離婚届を突き付けた。
そして充希が一人で考える時間を持ってもらおうと何も言わずに会社に出社した。今頃、充希はどう考えているだろうか。
気になって仕事が手につかないが、それよりも、もう一つ困ったことが発生した。
久しぶりに再会した彩寧が嬉しさの余り、興奮した子犬のように俺にまとわりつくのだ。とにかく落ち着かせようと昼休みにランチに誘ったが、彩寧の興奮はまだまだ冷めそうにない。
お互い、もう学生じゃない。いい年をした大人なんだから、少しは落ち着いてくれと思わなくもないが、わずかな期間とはいえ交際関係にあったことと、同じ剣道部の後輩ということもあって無下にも扱えない。
それに確かに久しぶりの再会だ。
積もる話もあるだろう。少しの間だけ付き合うことにしよう。そう考えた俺は会社に戻ると、エレベーターに乗り込む。
エレベーターのドアが閉まる時、充希の姿が見えたような気がしたが───。
いかんな……。
どうやら充希のことが気になって、他人の空似を錯覚するようになったようだ。------ 【登場人物】 ------ ▼杵島 充希(きじま みつき)/旧姓:大和田 充希 宗司と三年という期間限定の偽装結婚をするが双子を妊娠。 これを機に、偽装結婚を解消し、本当の夫婦になることを宗司に提案しようとするが、妊娠が判明したその日に、宗司から離婚届を突きつけられる。 ▼杵島 宗司(きじま そうじ) 充希の夫。充希とは幼馴染で、同じ中高一貫校に通った同級生。 充希が妊娠したことを知らずに離婚届を突きつける。 ▼藤堂 幸恵(とうどう さちえ) 充希の担当産婦人科医で親友。 充希、宗司と同じ中高一貫校の同級生で剣道部の部長。 ▼篠原 彩寧(しのはら あやね)/大和田 彩寧 充希の異母姉妹の妹。 中高一貫校の先輩である宗司が好きで、執着している。 ▼大和田 毅(おおわだ つよし) 充希の父。 大和田グループの社長。 ▼篠原 真紗代(しのはら まさよ)/大和田 真紗代 彩寧の母。大和田 毅の元妻。 自らの浮気が原因で大和田家を去る。 ▼忽那 碧(くつな みどり) 充希の産みの母。充希の父親の大和田 毅とは相思相愛。
「充希はどこに行ってしまったのだろう……」 ラウンジのバーで、そう独り言を呟いた俺は、ウィスキーのグラスを傾ける。 ロックアイスが転がり、カランと音をたてた。 離婚届を充希に突きつけた翌日、家に帰ると充希の姿はなかった。 俺が帰宅したのは夜も遅い時間だった。 こんな時間に充希が家にいないなんて……。 俺は心配になって家を飛び出し、充希を探しに辺りを走り回りたくなる衝動に駆られたが、テーブルに残された離婚届を見て事態を理解した。 離婚届には充希のサインがあった。 充希は離婚届にサインをし、家から───俺のもとから去ったのだ。 やはり充希は俺に愛想を尽かしていたのだ。 俺の方から、この結婚は偽装結婚で、三年で離婚する期間限定の白い結婚だと提案したのに、その誓いを守らず、酒に酔った勢いで手を出してしまう様な男と安心して同じ家に住めるわけがない。 充希が出ていくのは当然だ。「───だが、どこに行ってしまったのだ、充希……」 俺は充希が大和田家の実家に戻ったのかと思ったが、大和田グループ社長で充希の父親でもある大和田 毅氏は何も言ってこない。 もし充希が実家に戻れば、何かしらの連絡のひとつもあるはずだ。 他に充希が行くあてがあるとすれば藤堂 幸恵の所だろうか? 二人は中高一貫校時代から仲が良く、お互いの家で頻繁に「お泊り会」をする仲だったのでその可能性はある。 幸恵に連絡をしてみようか……? そう思ったが……。 ───ダメだ。あの鬼部長の藤堂 幸恵には連絡できない。 もし俺たちの結婚が偽装結婚だということがバレたら何を言われるか───何をされるかわかったものではない。 未だに中高一貫校時代の剣道部の部長のままで、俺たちに竹刀を振り上げて尻を叩きにくるような人だ。 この年齢になって、そんな折檻は御免被りたい。 俺がそうしたことを悩んでいると、一人の女性客がバーに駆け込んできた。 そしてその女性客は俺の姿を見つけると、一目散に駆け寄ってきた。「宗司先輩! 遅くなってすみません!」 それは彩寧だった。 今日、俺は彩寧と、このバーで会う約束を
崚佑さんとあまりお話をしない方がいいとはどういうことだろう? 私はドキリとして固まる。 一瞬、業務中に無駄話をしている態度が周囲から不快に思われてしまっているのかと危ぶんだが、その点は大丈夫だった。 というのも事務現場は意外と和やかで、皆、業務の手を動かしつつも、お喋りや息抜きを盛んに行っていたのだ。 そうであるにも関わらず、同僚が忠告をするのは何故だろう? ひょっとして幸恵も言っていた「崚佑は愛が重いタイプ」という事と関係があるのだろうか? 私は俄かに同僚の真意が気になり、意を決して尋ねてみた。「崚佑さんとあまりお話をしない方がよいというのはどうしてなのでしょうか?」 私は相手が自分の忠告を聞き返されたことによって、不快に思うのではないかと危ぶんだが、意外にも反応は全くの正反対で、むしろ話に喰いついてくれたと嬉しそうな様子だった。 どうやらこの件について、彼女は詳しく話をしたいようだ。 そう察した私は「ぜひ教えてください」と秘密をおねだりするように、もう一言添えてみた。効果は覿面だった。彼女は嬉しそうに理由を教えてくれた。「それはですね、崚佑さんが女性の看護師や女医から人気だからです。病院勤務は外部との関わりが少ないので、どうしても院内で「相手」を見つけないといけないんです。そうした思惑が渦巻く院内で、私たち事務方が男性医師と親しくしていると、目をつけられちゃうからですよ」 そう話す彼女は本当に楽しそうだった。 私は相手がかなりのゴシップ好きだと理解した。「そうやって目を付けられて、辞めていった事務方は多いんです。充希さんも気をつけてくださいね。特に充希さんは誰とでも親し気で、相手に対して親切だから男性に好かれていそうという嫉妬をより集めそうに見えるので」 饒舌になった彼女は、私の評価についても口走ってしまった。 それは悪意のある嫌味ではなく、純粋に私が「モテそう」という誉め言葉のつもりだったに違いない。 しかし、その一言は、私の胸に小さな果物ナイフを刺したかのような鋭い痛みを与えた。 私は「男性に好かれていそう」と周囲から思われているとのことだった。 驚くべきことに、私はその評価をとても不名誉なことだと
崚佑さんは、それから一日一回、日によっては午前と午後の二回も私のもとにやってくるようになった。 私たちは、私のお腹の経過についてや、何気ない話を短時間だがやり取りするようになった。「昨日、納豆は食べた?」「はい。崚佑さんに言われた通り、ちゃんと夕飯にいただきました」「納豆は葉酸も多く含まれているから妊婦さんにおすすめ。血液サラサラ効果もあって美容にもいい。朝食メニューのイメージがあるけど、納豆の効果は長く続くから夜に食べた方が寝ている間も効果が持続して効果的」 そう解説しつつ、崚佑さんはメモ帳を取り出すと、そこに何かを書き込んだ。 崚佑さんは几帳面で、こまめにメモを取るが、私はそのメモの表紙に「大和田 充希」と私の名前が書かれていることが気になった。 わざわざ、私専用のメモを用意するなんて……。 少し嬉しい反面、過分に気にかけてもらっていることに対する「過保護感」もあって、若干だが居心地が悪かった。「碧さんも納豆を食べた?」「あ、はい。母が家に居るときは、夕食を一緒に食べると約束しているので、同じメニューをいただいています」「碧さんは忙しそうだから血液はサラサラの方がいい。夕飯に納豆を食べたなら安心」 崚佑さんは、またメモ帳にペンを走らせる。 そうしながら「……碧さんって家にいるときは何してるの?」とさり気なく私に尋ねた。 私は家にいる時の母の様子を思い返す。「タブレットで動画を観たり、小説を読んでいる事が多いです」「そうなんだ」「でも、すぐに寝ちゃいますけど」 しっかり者のイメージの母のだらしない部分を暴露して、私と崚佑さんは笑い合った。 私は崚佑さんと出会った当初、崚佑さんが頻繁に私のもとに来る事に戸惑いがあった。 まだ慣れていないというか、詳しく知らない相手なので、少なからず警戒心があったのだ。 幸恵が崚佑さんのことを「愛が重いタイプ」と言っていたので、気に入られると付きまとわられるのではないかという心配もあった。 だが今はこうして笑顔になれることもあり、崚佑さんの訪問は業務のちょっとした息抜きにもなって重宝していた。 何より崚佑さんは本当に気遣いができる人で、私のお腹の様子、日々の生活、精神状態の微妙な変化に敏感で、色々
私は少しそわそわする。 先ほど搬送された患者さんが気になったのだ。 ───二十代の女性。 ───双子を妊娠。 ───切迫流産。 私と共通点が多く、他人事に思えない。 母が戻ったら、その患者さんが無事かどうか聞きたいと強く私は思った。 ギュッと目をつぶって、その患者さんの無事を祈る私の前に一人の産婦人科医が立った。 私は驚いて相手を見返す。 すると私の眼前にクリップボードにまとめられた書類一式が出された。「この事務処理を最優先でやって。緊急案件だから」 言葉短くそう告げたのは、種村 崚佑産婦人科医だった。 私は初対面だったが、胸のネームプレートで、この人が幸恵の言っていた崚佑さんだと認識する。 初めて崚佑さんをみた印象は「若手アイドルみたいに素敵な人」だった。 幸恵も確かに崚佑さんは「すごくイケメン」だと言っていたが、その言葉に誤りはなかった。「キミ、名前は?」「え───?」 急に名前を聞かれて私は思わず「え?」っと声を上げる。 そして咄嗟に「杵島 充希です」と答えようとして、はっとする。 ───……違う! ───私はもう「杵島」じゃない……! それは私に自分自身が離婚したのだということを強く思い知らせるのに十分だったが、今はその事で闇に沈んでしまうわけにはいかなかった。 私は気を取り直し「大和田 充希です」と旧姓を名乗った。「充希さん。これはね、さっき搬送された妊娠している女性の入院に関わる事務処理だから、すごく急いでる。すぐにお願い」 崚佑さんはそう言って改めてクリップボードを私に差し出す。 私は「わかりました」とクリップボードを手に取り、受け取ろうと引いたが───。「───?」 私がクリップボードを受け取ろうとしたが、崚佑さんが手を離してくれず、私はクリップボードを受け取れなかった。「あ、あの? どうかしましたか?」 私は尋ねるが崚佑さんはじっと私の顔を見つめるだけだった。 そのように見られて私はドキリとする。 こんなにも真正面から男性に顔を見られるのは久しぶりだった。「そうか、キミが充希さん。碧さんの娘さんの。なるほどだね。確かに碧さんに似て
「充希、どう? 仕事にはもう慣れた?」 私が事務手続きを行っていると、業務が一段落した母・碧が私の様子を見にやって来た。「うん。大丈夫。周りの皆さんも親切で、丁寧に仕事を教えてくれるから、ちゃんと業務をこなせているよ」「そう。よかった。お腹の調子も問題なさそうだし、少し表情も和らいでいるわよ。やっぱり仕事に就いて良かったわね」 私もその点については完全に同意だった。 母の家に籠っているよりも、こうして外で働いている方が気も紛れる。 そして業務に集中している間は、無駄に悩む事もしなくて済んでいた。「家に居た充希は表情もやつれて辛そうだったから、安心したわ」 母がそう言って安心してくれたので、私も安心する。 母に心配をかけるわけにはいかない。 今回の件は、私の自業自得だ。 自分で同意して宗司さんとの偽装結婚に応じ、三年間という期間限定の白い結婚であるはずなのに、その誓いを破って子供を妊娠し、そして離婚届を突きつけられる───。 場合によっては「あなたは何をしているの!」と怒られたり、非難されても仕方ない状況。 そんな私に何も言わず、全てを受け入れ、部屋に匿い、仕事まで与えてくれた母。 そんな母には、感謝しかない。 その為、母には、これ以上の心配や迷惑はかけられない。 そういう状況を鑑み、私は母に、今の自分の率直な悩みを打ち明けるわけにはいかなかった。 母は私が少し元気になったと安心してくれるけど───。 母は私の表情が少し和らいだと言ってくれるけど───。 本当の私は、ふとした拍子に宗司さんのこと、離婚のこと、お腹にいる二人の赤ちゃんのことを考え、ギュッと胃が縮まり、両肩にズシリと重い布団を被せられたように身体が重くなり、部屋の電気が消えたように暗闇に包まれ、周囲の音がなくなって「キーン」という甲高い耳鳴りがするような、孤独とも不安とも恐怖ともつかない、とても心細い状態に陥ることがあるのだ。 母の家に来た当初は、頻繁にその状況に陥り、何もすることができずにただただ耐えていた。 その時の状態から比べれば、今は確かに回数が減り、苛まれる時間も短くなったが、それでも業務中だろうが休憩中だろうがお構いなしに、不意に私はそうした状況に、しばしば陥っていたのだ。 だが
幸恵に言われた一言は私の心に重くのしかかった。 そうだった。私はもう宗司さんの妻じゃない。 独身だ。 これまでは宗司さんという頼れる存在が傍らにいてくれたけど、今の私にそうした拠り所はなかった。 私は急に、見知らぬ土地で迷子になったような不安感を覚える。 それはまるで、これまで籠で飼われていた小鳥が巣から出され、野生の大空に放たれたような心許無さだった。 それは自由ではあったが、いつ何時、どこから外敵に襲われるか分らない不確実性との戦いでもあった。 私は急に外に出るのが怖くなり、家に籠ってじっとしていたくなる。 でもそういうわけにはいかない。そうして隠れ続けることはできない。 私は自分一人で人生という大海原に小舟で漕ぎ出さなくてはならないのだ。 それはとても勇気がいる行動だったが、私は負けるわけにはいかない。 何故ならこれは私一人の問題ではないから。 私の中に宿る二つの生命。 この大切な赤ちゃんたちの為に、私は強くならなければならない。 しかし、勇気を振り絞ることは気が重く、億劫である───。 ───かと思ったが、意外にも私はメラメラと困難に立ち向かう勇気が、自分の中で燃え上がり始める熱を感じた。 子供がいることが枷になるかと思いきや、そうした負の感情はまったくなかった。 私は自分がこの子たちの存在を、重荷というようには全く感じていない事実に驚く。 むしろこの子たちは重荷どころか私の支えになってくれている。 この子たちがいるから頑張れる。この子たちがいるから勇気が出せる。この子たちがいるから私は立ち向かえる。 なんと尊い存在なのだろう。 私は自分のお腹に手をあて、私の中に居てくれる二人の赤ちゃんに心から「ありがとう」と感謝をした。 * * * 私が母の勤める総合病院で働く話はトントン拍子で進んだ。 面接もそこそこに、「碧さんの娘さんなら安心」「とにかく病院は人手不足で大変」という二点の理由だけで「早速、明日からでも」という勢いで話が決まった。 最初の一ヵ月は様子見ということで、週三回の勤務で「慣らし運転」から始まったが、幸い私は「昔取った杵柄」が今も生きているようで、すんなりと業務の流れに加わることができた。 「さすが碧さんの娘さん」「やっぱり碧さんの娘さんは違い